庭日誌 January 2002  前半| 後半  最初のページに戻る戻る
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メジロとシジュウカラがけっこう仲良くやっている。餌を啄んでは、ハナミズキの枝で食べている。今朝は風邪気味で目覚ましがなっても起きられなかった。

外でカラスが激しく鳴いていて、小鳥の激しい泣き声が続いた。ああ、カラスに虐められているんだなあ、と布団の温もりのなかで光景を想像していた。午後になってお隣の奥さんとお茶を飲んだ時に、話を聞くと、ヒヨドリのヒナが毎年カラスにさらわれて食べられてしまうとか。彼女の家の窓から、それが良く見えるのだという。にもかかわらず、毎年毎年同じ所に巣を作っては雛を育てようとするとか。そして、ヒナが居なくなっても餌を運んで来るのが痛ましいのだと。ツバメは巣を壊されると、2度と戻ってこないのに、鳥によって随分と違うものらしい。

机に向かうのに飽きて、昼前に久しぶりで「庭遊び」をした。春を恋い、春を思って土遊び。今回は西側の踏みタイルを数枚移動した。それから草むしり。この時期の草むしりはちょっと楽しい。地上にはちょっとしか緑が出ていなくても、引っ張るとするすると抜けて長い根がたっぷりでてくる。霜で地表がふかふかになっているためと、この時期にじっくり根が張るためらしい。丈夫な苗を育てるためには越年させるとよい、ということが良く分る。

「Pippiバアチャンよう遊ぶねえ」と自分に声をかけ、昼のサイレンを聞いてしばらくしてから家の中に入った。

ユキヤナギの細い枝にびっしり花芽がついていたのはいいのだが、大きな貝殻虫がいくつか。デッカイ!ゴム手袋を走って取って来て一つずつ潰した。サンシュユも咲き出しそう。

春になったら、ここにあれを植えて、あれをここに移して、ここには何をからませようか。たっぷりあそんだ後の昼御飯は発芽玄米と昨夜の残り物のおかず。とっても美味しかった。

1/13

一昨日やっとパソコンが階下に降りて机と並び、作業がし易くなった。

庭はほとんどすることがなく、のんびり歩き回っては春の作業のことを考える。まだまだ不完全で西側などは、なにも生えていないところがあるのだが、この不完全さが却って私には休まる。去年はナノハナを植えたのが正解だったが、今年はぎりぎりまで1年草があったので、種まきができなかった。いや、忘れただけ。自分はすべてにおいて、コレクションという行為をしないことに決めている。一定の何かを集めるということをしたくないのだ。庭作りに関して言えば、ある場所を楽しむためにそこにあって欲しく、しかもそれが気に入るのならば、その植物をそこで育てたいだけ。気に入った植物があってそれを育てるのに一番良い場所を捜す事もある。私の庭は、何処から見ても素人作りで、飛び抜けた特徴がなくていい。でも、ここに居ると心が落ち着いて休まる、そんな庭作りをしたいだけ。

昨日、ふと思い立って塀の西側沿いに刺してあった棒を全て抜いてしまった。昨年は、一体なんであんなことをしたのだろうか。レンギョウ、ハクチョウゲ、ウツギ、みんな塀に押し付けられている。柵を取り除いてやったから、今年の春はもっと伸び伸びとカイズカイブキの間に飛び出てくるだろう。

あの狭い小道は亡き主人が這うようにして歩いて楽しんでいた所だった。だから、必然的に残すものと思い込んでいたのだ。でもBethの本を読んでいて、ちまちまがいやになった。柵で塀の方に押して飛び出した枝を切るのがいやになった。なにもあんな狭いところを通り抜けて遊ばなくても十分ゆったりと楽しめるもの。

室内では、机の脇に双眼鏡を置いて鳥の声がすると急いで見ている。鳥は早起きというが、冬はそうでもない。餌をついばみにくるのは日が登ってから。シジュウカラのつがいは毎日やってくる。ムクドリもお馴染みさん。先日は見なれない鳥がいたので調べてみると、ツグミ。胸の模様に特徴があるので、覚え易いが名前のイメージとは随分違っていた。ハトは、いつもハナミズキの決まった枝に止まり、こちらを向いて羽を繕っている。真正面から見ると、首が埋まっていてほおが強調されるのでおかしな顔だ。

今日は草花のページに手を加えた。山間に近い東京の西部で、個々の植物がどのように生育するか、自分にとってもこれからの為の資料となるので、ちょっとずつ更新している。このサイトを訪れる人がいらして、なんらかの参考になることがあれば、それは何より嬉しい。

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なんやかんやでペンキ塗りは後回しになってしまった。例のベビーベッドからの作品は左上にある。これを西の軒下に置いて、乾燥を好む植物を植えようと思っている。どうやら使われているのはマホガニーらしく、この所有者がお金持ちだった頃の品。30年以上も昔、値のはる品だったことだろう。雨曝しになっていて接続部分はぎくしゃくしている。

椅子とテーブルは、はずみがついてついでに塗ってしまった。日本に住んでいたアメリカ人が、国へ帰るときにもてあまして置いていったもの。すでに何度か塗り直されているので、近寄ってみると表面はでこぼこしている中古品である。

私事ながら、昨日は大切な一日だった。娘が長女を無事出産、真っ赤な顔で手をばたつかせている生き物をガラス越しにじっくり眺めて帰ってきた。産まれ立ての赤ん坊を間近に見るのは自分の娘が最後だったから、遠い昔のことである。

「ああ生きている、動いている」

触るとこわれてしまいそうな、目の前にある頼り無い生命が自分の娘のお腹の中で育ち、こうして誕生した。まだ実感が湧かないのだが、また会いたくてたまらない。

これって何だろう。祝福されてこの世に生を受けた愛らしい生き物が、私の心を突き動かすようだった。こんなチビタンが、すごい力で心臓を揺すぶった。

1/6

"Beth Chatto's"をやっと読みはじめる。ああなんて素敵な人なんだろう。長い事Vita の本を読んでいて、時折付いて行けない感があったのだが、今のところ彼女の考え方にはもろ手を上げて賛成したい。

単純に土が酸性かアルカリ性かだけでなく、それ以外の土質に合わせて植物を植えることを強く主張する。土質が合えば多少のアルカリ度はカバーできるとか。粘土質でも石灰質でも、無理に土を改良するのでなく、まずはそこに適した植物さがしから始め、少しずつ改良していけばよいと。腐食質の多い土質では全般的に植物は良く育つが、外気温と共に土の温度も急激に下がる。砂や小石の多い土の方が、越冬には適した環境を与えることもあるという。また、花の色や形に捕われ過ぎないで、個々のテクスチャーをよく考慮するように繰り返す。植えっぱなしで楽しめる様年間を通じてのバランスを考えるようにとも。

長い間の失敗も交えて説得力のある話が続くのだが、なんとも植物の名前だけでは分らずに調べながら読み進めるのでのろのろとしか読めない。

例によってこういった本を読む時は何度も庭にでることになる。ツツジの話が出れば、「はて、我が家の子供達は」と、ベルゲニアが乾燥気味を好むとあれば、外に飛び出して、凍り付いている鉢を引っこ抜いてうろうろする。南西に面したところにあるというセダムのベッドの写真を見れば、「家にも乾燥して日当たりのよい南西面がある!」と今度は工作まではじめてしまった。いつかいらなくなったベビーベッドの一部をもらってあったので、これを用いてプランターの台を作った。

買いたての電動ドリルのお出ましと、腕まくりしたまでは良かったのだが、一体このベッドは何の木でできているのだろう。固くて固くて、ドライバーが唸ったと思ったら、ネジ山が削られてなくなってしまった。工事で残った端材を引っ掻き回して、のこぎりで切ってあるので、もう止められない。結局ドリルで穴を空けて釘にトンカチと変更した。ああ御近所では「正月そうそう**さんの奥さんは何をしているのかしら」と眉をひそめられているだろう。太い釘を打ち込むのはかなりの重労働で、あたりに音がこだまする。「ああお腹が減る」休憩のおやつはバニラアイスにクッキー用のチョコレートを振り掛けて食べた。

あした、ペンキを買って来て塗ったら御披露するとしよう。(.雨曝しになっていたベビーベッドの横柵は、一番上の横木も外れそう。危ないので子供は側に寄るべからずって書かなくては。恥ずかしいな。)

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昨日indexページを新しくした。長女の作ったロゴが、今までのカラーの中にどうしても溶け込めないため。レイアウトはそのままなので、大きな変化はなく分かりやすいことと思うが。

四季なりイチゴが真っ赤に紅葉してとてもきれい。固体差なのか環境による違いなのか、花壇に直植えしたものはほとんど色に変化がない。同じポットでも何株かまとめ植えしたものには大きな変化が見られない。ただこのポットのだけがこんなに赤くなっている。夕日が当たると燃えるように艶やかだ。

こうしてみると、同じ植物でもいくつかを違う環境の元で育てないと、その観察結果に信憑性がないことになるのだろうか。ブルーベリー、ツボサンゴも葉を落とさずにきれいな赤を見せている。

暖かな日中は庭に出ていると心地が良い。芝生の上で、ちょっとした工作をして遊んだら、背中が暑くなるほどだった。明日もこんな日なら、本を持って外に出よう。

1/3

再び年が改まり、あいさつが「おめでとう」となる。ただ一夜明けただけなのに。

今年は掃除機が旧書斎に置かれたまま年を越してしまった。机は階下にパソコンは2階にという分離状態で、階段を行ったり来たり、でも新しい部屋の方が居心地良く、お陰で久々に文字を書く日が戻ってきた。

読みたい本の山。なにげなく手にして買った本の中に、「もっと早く読んでいればよかったのに」と思える掘り出し物を見い出すことがある。マーク・ピーターセンの「心に届く英語」を読んで、2カ国語を理解する彼の視点から捉えた、説得力のある分析的説明に惹かれた。過去に書かれた本「日本人の英語」もとても良く書けている。

昨日、ぱらぱらと雨が振っただけで、外は乾燥し切っている。ラッキョウ樽の貯水は尽きない泉のようで、2つのじょうろに交互に満たしては鉢植に撒いていたのだが、今朝はホースで散布した。

ホースの届く南から西にかけての散布が終わると、じょうろを持って北側に回る。ゴム手袋が真っ黒になったのは、ホースがよごれているから。そのまま石鹸で洗って拭いて下げる。やれやれと2階に上がるとベランダの”子供”たちが干涸びている。「およよ、ちょっと待っててね」室内用のじょうろはもっと大きいのが欲しいところ。年末に適当なものが見つからなかった。室内にもごらんの通り。この棚は組み立て式で、キャスターが付いている。午前中は窓辺に移動してお日様に当てられ、とても便利。こうなると、水やりだけでかなりの時間がかかる。

ふと、かつての飼い犬バルの事を思い出す。庭に放し飼いにされたお陰で、塀の内外にやってくる犬でもネコでも鳥でも、見つけ次第ほえて追っかけまわしていた。悲しい犬の習性とはいえ、どうにも止まらない。ほとんど休む間もなく駆けずり回って、時折「わたしゃ疲れるよ、なんとかしてよ」とひいひい息を切らせて哀願しているかのような目付をしていた。

基準をどこに置くかではあるが、植物の分量、管理も、50代の私にはそろそろ限界に近付いているのではと、バルの”目つき”が思い出される。

左のオリズルランは、玄関のアーチ下で今も元気に育っている。「霜避け」の意味が実感されるのだが、ちょっとでも霜にあたると無惨に萎れてしまうのに、ここでは、こうして寒さをしのいでいる。このまま越冬してくれそう。これは、ツルニチニチソウも同じで、ナンテンも、霜のあたる葉は美しく紅色なのに、アーチ下の葉は緑である。

さあて、今年はどんな風にこの日誌を紡いでいこうか。2年目3年目となった木や草花がどのような経過を見せているか、そちらのページの更新を充実させてここ関頭西での生育状況を把握したい。

日誌には、やはり雑感を交えていくつもり。植物を中心に据えての雑感を綴っていくことに変わりはないが、そこにはどうしても私の視点が色濃く見えてくることだろうから。

朝からホオジロが忙しく飛び回っている。かすんだ窓ガラスからでも、双眼鏡ならあまり気にならないけど、やっぱりきれいがいいなあ。

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