庭日誌 September 2001 前半 (後半) 最初のページに戻る
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| 9/17 |
先週末は長野県の飯田まで、用があって行ってきた。道路の中央にりんごんの木があって、熟した実が、たたわわになっている。植えた当初は、大火のあとで、実っていても誰も捕らないようなそんな町にしたかったとか。 物の豊富な現代では、誰も捕らないのは味が良くないかららしい。 道具一式を手に外にでると、散歩をしている親子連れがいた。 「見りゃあわかるじゃん!こちとら植木挟みでちょきちょき蔦を切っているんじゃないか」 と思った。 暫くすると、子ども用自転車に乗った男の子が、急に止まって 自転車を道路の中央に停めたまま、走って庭に入っていった。 私は、一旦は後から付いて行ったが、すぐに戻ってアイビー刈りを続けた。 間もなくその坊やが戻ってきたと思ったら、 今度は父親が一緒だった。 5分もしただろうか、嬉しそうな顔をして坊やが出てきた。 なんだか私まで嬉しくなり、父子の後ろ姿を見送っているうちに笑みがこぼれた。 たかが小さなボールひとつ。今どきの子のほとんどが、すぐに新しいものを買おうとするだろうに。 物を大切にするっていいなあ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ |
| 9/12 |
心が重く、緑を求めて庭にでる。 緊急事体や不景気の時、一番いらなくなるのは芸術の分野となる。が、人間はそんなものなのだろうか。 居間でニュースの映像に釘付けになる自分は、安全な所に居て心配なんかして、偽善者みたい。ずるいみたい。 人間は、「Art」なしでは生きられない、衣食住よりの必須であると誰かが言ったそうだ。 どこに生活の最低基準を置くかは人それぞれだろうが、人は飢えていないが限り、美しいものが必要。コンクリートとセメントに囲まれて生きている私達は、ともすると、心の乾きを自覚することすらなくなっているのではなかろうか。 忙しさに音楽を忘れかけていた私が、久しぶりにCDをかけ始めた。ひょっとして、心の乾きや飢えを感じ取るセンサーが故障してしまうと、人は恐ろしいことを平気でするようになるのかも。 もうすぐ公開予定の、Pippimama Art Collectionに力を入れよう。 |
| 9/9 |
台風が近付いている。熱帯性低気圧特有のじっとりとした空気を感じ、予報を調べた。 ハナトラノオ(フィソステジア)、ソバカスソウ、アリウムの種類の何か、ニラの花。家の中に閉じ込められそうだから、少し切ってきた。 |
| 9/6 |
少々気落ちしたけれど、陽が翳る頃には、ちゃんと夜顔が咲き出した。なんて妖艶な美しさだろう。去年、自転車で何度か通 った家の塀に咲いていたのを、うらやましく思っていたから、今年は種を求めて育ててみた。 見とれていたら、何十と大根足が蚊に食われてしまい、花を摘んで家の中に退散した。ね、綺麗でしょう?ほんのり香りがある。でも、ごめんなさいね、だってすぐに萎れてしまったのだもの。短い命なのに、もっと短くしてしまって。でも、私を誘惑したのは貴方なのよ...。 実は、仕事で京都に行っていた。若い頃はあまり魅力を感じなかった寺の庭だけれど、今はその凄さに感嘆する。隙をゆるさないまでに丹精された松。銀閣寺入り口にある青味がかった松は素晴らしかった。丸山公園の百日紅、ゆったり伸びやかに育って池に向かって舞っているよう。花の付き方と枝振りからすると、一般 に見かけるものとはちょっと種類がちがうようだが。我が家のは、花の付く枝が長く、また花もたっぷり付くので、重さで枝垂れ形になる。 木を中心にした京都の庭園は、成熟した大人の味といったところでしょうか。 |
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